2012年01月08日

小説“悪霊”第一話


ミコルカ工業では一日の業務が始まろうとしていた。

信号待ちの車の連なり、駐車場から工場へ向かう人の列、始業前の雑踏が辺り一面に広がっている。

井田洋介はミコルカ工業で働く工員の一人だ。

洋介はごく平凡な24歳の青年。目はいくぶんかぼんやりしており、やや生気を失っている。

単調な日々に退屈し、何か新しいことを望みながらも何もできない。

そんな世の中の大部分を占める凡人の一人である。

世の中はバブル景気に浮かれ、日本の未来は明るいと一部の人たちはしきりに唱えていた。

でも、そんなことは庶民には関係ない。庶民には日々の暮らしがあるだけだ。

洋介もそんなことはどうでもよかった。

彼にはただ単調な毎日があるだけであり、彼にとっては今日一日を無事に過ごすことだけが関心事だった。

そして今の彼の最大の関心事は、ただ遅刻しないで工場に行くことだった。


午前7時45分。静まり返った工場の通路に人影はない。

工場を入り左手の駐車場が従業員専用駐車場になっている。洋介は車を駐車場に止めると、眠い目をこすりながら、工場の門へと走った。

始業は午前8時。今はもう午前7時50分。静まり返ったアスファルトの通路を作業場へと急ぐ。

会社の規則では、従業員は更衣室で作業服に着替えてからタイムカードを押すことになっている。

しかし洋介は作業場に入ると更衣室ではなく一直線にタイムカードへと向かった。

洋介が勤めるミコルカ工業の出社は午前8時だが、実際の始業は午前8時30分である。この間の30分間、工場内には工場長の訓示が流れ、仕事に対する心構えを新たにする時間となっている。

不真面目な従業員は8時少し前やってきてタイムカードだけ押して更衣室で雑談してから8時30分ぎりぎりに持ち場に着く。

しかしそれも上条修が来るまでのことだった。

修は40代後半の小柄な男でなにかと規則にうるさい。彼は毎朝タイムカードのところにいては、不真面目な工員が来ると、彼が着替えて来るまでタイムカードを押させなかった。

タイムカードのところには、修が待っていた。

洋介がタイムカードを押そうとすると修がその手をおさえた。

「おいお前、タイムカードは着替えてから押せよ!」

洋介は修をふりきりタイムカードを押した。

怒った修は洋介からタイムカードを取り上げた。

洋介はむすっとした顔で修を見た。

「なんだお前そのツラは?俺に文句でもあるのか?」

修はいつも規則にうるさい。

「修さん。ちょっと遅れただけ。勘弁してくれな。」

「井田、着替えて来い。」

洋介はしぶしぶ更衣室に行き作業服に着替えて来た。

洋介が着替えてきたのを見ると、修はちらりと壁にかけてある時計を眺めた。

「井田、今は何時だか知っているのか?おい、もう8時10分だぜ。ここに8時10分ってちゃんと書いておくからな!」

「修さんそりゃないよ。どうせ朝の30分間、工場長のくだらない訓示やら体操やらするだけじゃないか」

「もう次回から守るから今回だけは勘弁な」

「お前はアホか?規則は規則じゃい。井田、出勤8時10分、10分遅刻」

「修さん待ってくれよ。俺、今月もう3回遅刻。やばいよ」


ミコルカ工業では1カ月に3回遅刻すると、残業代が20%オフになる。

5回すると上司からの訓戒があり、10回すると不良工員ということで、解雇の事由になる。

普通10回するような工員はいないだろうと思われるかもしれない。

いやいや、ミコルカの工員はできが悪い。

平均遅刻回数月20回の強者がいる。会社に反抗してツッパっているとしか思えない。

彼は、出勤日数のほぼすべて遅刻している。しかも10分程度ではない。普通に1時間、2時間遅刻する。

彼はまったくやる気がないのだ。ゼニさえもらえればいいと甘えきっている。

彼は後で登場する人物だが、ここではこれ以上説明しない。説明はその時にしようと思う。


しかし、洋介は神経がか細く、遅刻するくせに完璧主義者で遅刻を気にする。

そんな洋介に対し修はすげなく答えた。

「俺の知ったことか。遅刻するお前が悪い。」

そう言うと修は赤いボールペンで数字に斜線を引き横に午前8時10分と書き遅刻の印を押した。

洋介は近くにあった空き缶をけ飛ばし、持ち場へと向かおうとすると、修が呼び止めた。

「井田、物にあたるなよ!物は大事にしろよ!物づくりに携わる工員の常識だろ」

修は腰に手を当て、目を吊り上げて怒りをあらわにしている。

「修さん、空き缶ぐらいけったっていいじゃないか」

洋介はふてくされた表情で修の目を見ず、吐き捨てるように答えた。

その態度が修の怒りに火を注ぐ。

「ばかたれ!その心がけがいかん」

修は大声でそう叫び、洋介を恫喝した。

修の汚いつばが洋介の顔にかかった。

修のカレン臭が洋介の鼻をつく。

洋介はハンカチを取り出すと顔にかかったつばをはねのけ、修のカレン臭を払うと、そくさと作業場所へと向かって歩き出した。


朝のラジオ体操は誰もやらない。

工員は皆、壁に寄りかかっては雑談している。

田中光一は、地面を眺め野球玉ほどのゴムボールをけって遊んでいた。

コンクリートの地面にはチョークで線が引かれ、空き缶と工具で迷路が描かれていた。

ゴムボールをけって、迷路の中央の空き缶にあてるという遊びだ。

修が来ていらい遅刻できなくなった。貴重な時間を少しでも楽しもうとする光一の考えだ。しかし、もう100回も同じゲームをしているため、光一は数回けるだけで中央の空き缶にあてるまでになっていた。最近、光一はこの遊びに飽きてきた。

手持ちぶたさに入口を眺めていたら、ちょうど修と洋介のいざこざが目に入った。

光一の持ち場は洋介の隣だ。

光一は洋介が遅れて来たのに気づくと声をかけた。

「洋ちゃんダメだよ。オサムッチのヤツ、絶対ゆずらないから」

洋介は無言でうなずいた。


午前8時30分。ベルトコンベアが動き出し、プリント基板が回りだす。洋介が担当するのはA,Bという部品を取り付けはんだで固定する仕事だ。

次から次へと部品が運ばれてくる。洋介は要領が悪い。

昔からそうなのだが、誰よりも飲み込みが遅く、生来ののんきな性格のせいか動作も遅い。

修がやってきた。

「おい井田、まだ寝ぼけているのか?お前他の連中より1分遅いぞ」

「お前のせいで作業が1分遅れると1日に100個製品が遅れる」

「100個の損失は1万円だぞ、その分じゃお前に給料は払えないぞ」

「お前分かっているのか?早くしろ」

修は洋介が属するセクションの監督。今日はタイムウォッチ片手に一人一人の作業のスピードを計っている。

洋介の隣を受け持つ光一は必死で製品を送り出し、少しでも洋介の遅れを取り戻そうとしている。

洋介はプリント基板を取り上げ、一つ一つチェックしながら部品をつける。几帳面な性格のため、不安になると2度、3度と基板をチェックする。

その間にやらなければいけない作業はつぎからつぎへとたまる。

修が叫ぶ。

「井田、お前、前がつまっているじゃないか、急げ」

あせるとなお作業がはかどらない。


午前8時50分、鼻歌を歌いながら鈴木健太郎がやって来た。

彼が口ずさむのはいつもヘビメタのキチガイじみた歌詞ばかり、

健太郎は、金髪に染めた髪を立たせ、きらびやかなアクセサリーをじゃらじゃら揺らし、

作業着を着てはいるものの、作業着の背中には龍が描かれ、とてもまともな工員には見えない。


ミコルカは工員を大事にする会社との売り文句だが、実態は、ただ工員の管理をおろそかにしているだけ。

いくら工場長が綱紀粛正を訴えても、それに従わない従業員は多い。

工場長は毎月の報告書で、ウソばかり報告しなければいけない。そうしないと評価を落とされる。

“整理・整頓・清潔の行き届いたすばらしい職場環境です”


健太郎のラインの班長を務める幸助は、二人分働かなければいけない。

健太郎はいつも遅刻する。

班長の幸助は彼がいない間、彼の穴埋めをしなくてはならない。

幸助は困ったような表情で健太郎に哀願する。

「健太郎くん、困るなぁ。遅刻しちゃ。次回から遅刻しないで来てね」

健太郎は、幸助の顔も見ない。

そのまま作業場につくと幸助を押しのけ、作業を始める。

1つ部品をくっつけると、次に回す。

早い。普通の人の2倍の速さだ。

作業が早く終わるので、健太郎はタバコをくわえ、歌を口ずさんだ。

なるほど余裕かましているとは、相当、有能な工員なのか?

・・・そんなわけはない。ただ材料を横に流しているだけだ・・・。

幸助は健太郎の隣にいて、一生懸命、健太郎がつけた部品を確認している。

「健太郎くん、ちょっとこれ困るよ。ちゃんとつけてくれないと売り物にならないよ」

恐る恐る幸助が言う。

「てめぇ。何俺に口きいてるんだ。貴様が直せばいいだろ」

健太郎は上司の幸助に向かってそう叫ぶ。

ラインの全員は慣れっこだ。

皆、あきれ顔で自分の作業をこなす。

本来班長の仕事とは工員の管理だが、このラインでは班長の幸助は始終、健太郎のおもりをしている。

班長の仕事は、健太郎と幸助以外の誰か手の空いた人が行っている。

だから、監督できていない。

普通、突然の便意などを催した工員は班長と交代することになっている。

しかし、このラインではそれができない。

もし下痢にでもなれば、おなかをかかえ、脂汗をかいていなければいけない。

そして、耐え切れなくなると、その場から逃げ出す。

製品はそのまま流れ、ベルトコンベアから落ちる。

安全装置が作動して、工程が止まる。

ブザーは三回

ブー、ブー、ブー

昨日は1日で10回止まった。これでも少ない方だ。

今日は何回止まるだろうか?


午前9時、ミコルカ工業のドン、桜木武雄がやってきた。

今日は1時間の遅刻。めずらしいことではない。

この人物が先ほど紹介した遅刻魔。魔の武雄さんである。

この男はいつも遅刻する。しかも普通に1時間遅刻する。ひどい時は無断で欠勤する。

会社の規則では月10回以上遅刻すると解雇理由になるという。

しかし、この国の法律では正社員は過剰に保護されており、実際、解雇される工員はいない。

武雄はそのことを知り尽くしている。ワル賢い確信犯だ。



ミコルカ工業では同じ工程を行うセクションが4つあり、洋介たちはDセクションに属している。

一日の作業が終わった後、出来高を集計してみると、Aセクション1,100個、Bセクション1,200個、Cセクション980個、そしてDセクションはなんとたったの700個。

Dセクションには井田洋介、桜木武雄、鈴木健太郎と作業効率が悪い工員が3人もいる。

毎月の出来高を比べると断トツべり。

修はDセクションの監督であり、修はいつもそのことに腹を立てている。

今日も集計表を見て不機嫌だ。


終業後、修は洋介、武雄、健太郎の3人を別室に呼んだ。

「おい!井田、桜木、鈴木、お前ら遅刻はするわ、作業は遅いわ、そんなんじゃ金払えないぞ!まじめにやっているのか?」

「ちゃんと評価つけとくからな。分かったな!本当、お前らにゃ個別指導が必要だわ」

修の言葉に反感を覚えた武雄が修に口ごたえした。

「修さん、俺だってがんばっているんだぜ。ひどいこと言うなよ」

「桜木、がんばるなら数字で示せ」

武雄はするどい目線で修をにらむと、そくさくと作業場から出て行った。

「おい!桜木、まだ俺の話は終わってないぞ。戻って来い。ちぇ、あの野郎ふてくされやがって。くえねえ野郎だ。」

修は武雄が勝手に退出したことに腹をたて、近くにあった灰皿をテーブルにがつんと叩きつけると、なおも洋介と健太郎相手に説教を続けた。

修の説教は延々と10分も続いた。

修はグダグダと道徳論を語る悪癖があり、Dセクションの誰もがそれにはまいっていた。

洋介も健太郎もすっかり嫌気がさし、目線は地面を眺めたり窓の外を眺めたり、帰ってからなにをしようかとよそ事ばかり考えだした。

その態度を見て修は声を荒げてどなった。

「おい!真面目に聞いているのか?お前らクビにするぞ!」


修の話が終わると健太郎は逃げるように作業場を後にした。

洋介は、誰もいない作業場で一人、自分の持ち場の整理整頓をした。

洋介にはなんで自分の仕事が遅いのか分からない。

いつもやみくもに怒られるが、彼には何をすればいいのか分からない。

こんな時はいつも、胸をつかえるくやしさ、ふがいなさで心は落ち込む。

俺は何をやってもダメなのか?俺はダメ人間なのか?

洋介はノートを一枚破り、そこに“ダメ人間さようなら”と書くと、丸めてゴミ箱に捨てた。

捨てた後、ちょっと自分からダメ人間が離れていったような気がした。しかし、すぐに何も変わっていないことに気づいた。

やりきれない。タバコを一つ取り出すと口にあて、それに火をつけた。

白い煙が宙を漂う。

煙が洋介の臓腑に染み渡ると、洋介の体全体から力が抜けていった。

そしてしばらくすると、洋介は頭がくらくらしてくるような感覚を覚えた。

「タバコはいいや。最近毎日一箱は吸っているかもしれないけどな」

洋介は独り言をぶつぶつ言った。

そして、いくらか気分が落ち着いた洋介は作業場を後にした。


作業場と通路を隔てるビニールのシートをくぐり、作業場から更衣室に向かうと、そこでは武雄が洋介を待っていた。武雄は壁にもたれかけタバコを吸っていたが、洋介を見つけると、一息、口から白い煙を吐き、タバコを右手に持ち口を開いた。

「おう洋介か、またオサムッチに言われちまったな。へへへ、あいつ何かとうるさいからな。でも、ちょっと700個はまずいよな」

「洋介、お前、もう少し要領よく作業できないのか?」

「もう少し早くはんだをつけるとか、確認は確実に行い一度で済ませるとか」

「ああも言われちゃ、俺たちも仕事やりづらいんだよな」

「まあ、お前だけのせいじゃないけどな。なんとかならないものかね」

洋介はすごく嫌な気分がしたが、それがなぜだか分からなかった。

「桜木さんすいません。俺が悪くてみんなに迷惑かけて。俺がんばるよ」


修にしかられ、健太郎は機嫌が悪い。

健太郎は、手に持ったバイク関連の雑誌を丸めバシバシとひざに打ちつけ、修の悪口を言っていた。

「修のヤツ。それにしてもけったくそ悪いやつだな。今度、あいつの家に火でもつけたろうか?」

健太郎は、仕事中勝手に持ち場を離れたり、居眠りしたり、仕事がたまり面倒くさくなると、作業の確認もせずに次の担当に回した。

Dセクションの不良品の8割は健太郎のせいであり、そのためDセクションの不良品発生率は他のセクションの5倍であり、Dセクション生産量断トツべりの原因の一つとなっていた。

しかし、健太郎はそんなことはまったくおかまいなし。

ただ修にしかられたことを憎んでいる。


健太郎は、何かむしょうにやつあたりがしたくなった。

しかも、昨日パチンコで2万円もすってしまった後だ。

給料日までまだ2週間もあるというのに、健太郎はもう数千円しか手持ちのお金がなかった。

健太郎は、たかれるカモを探しに工場内を散策していた。

その時、ちょうど洋介が目に入った。


健太郎は洋介に走りよると、突然、洋介を後ろからつっついた。

「痛いな、誰?」

「うるさい、洋介、お前、俺に逆らおうって気じゃないだろうな」

「今度、1万円貸せよな!」

「分かったか!」

「そんな無茶苦茶な。健さんいつもそう言って返してくれたことないじゃないか?まずは前に貸した1万円返してからにしてな」

「なんだコイツ俺に逆らおうっていうのか」

健太郎は洋介の左足にけりを加えた。洋介はうろたえた。

「いやいや健さん堪忍や」

「おい!洋介、明日までに1万円もってこいよ」

それだけ言うと健太郎は、洋介から離れた。

洋介はくやしくてくやしくてしかたがない。

健太郎は、金髪の髪にちゃらちゃらしたピアスをはめ、見るからに恐ろしい。いつも力こぶをつくってはまるで自慢気に見せつけてくる。

実に嫌なやつだが、こんなやつに限って殺されない限り死ぬ気配はない。

クソ野郎、このバカ、ナイフでひと思いに突き刺せたらどんなに気持ちがいいだろうか?

洋介は何度も健太郎をナイフで刺し殺すことを夢想した。


洋介は大人になった今でも鉛筆を使っている。

そのため、いつも鉛筆削り用のナイフを懐にしのばせていた。

洋介は懐からナイフを取り出すと、近くにあったイチョウの木に突き刺した。

「おい!貴様なにしてるんだ!」

修がすっ飛んできた。

修はゴミ袋を持って工場内のゴミ拾いをしていた。修は規則を守るのが趣味のような男で、会社の壁に貼ってある工場内美化活動を絶えず実践しているのだ。

そんな修が工場の大事なイチョウ並木を傷つけている不貞のやからを発見したのだから心穏やかではない。

しかもその相手が先ほどしかったばかりの洋介だ。

修は顔に青筋を立てている。明らかに不機嫌だ。

「お前、会社の備品に傷つけるなよ!今度やったら始末書ものだぞ」

洋介は、健太郎に恐喝されていることを修に言おうかどうか迷った。しかし、恥ずかしいのと、健太郎の復讐が怖いので言わなかった。

「修さん。俺だってたまにゃきれることあるんだよ」

「お前が俺だってて言うことは、俺はいつもきれているという意味か?」

修は怒るとまるでやかんのように、顔を真っ赤にしてフーフー言い出す。すぐにも頭から湯気があがってきそうだ。

洋介は、おかしくてかすかに笑った。


洋介がイチョウの木からナイフを離すと、イチョウの傷口からは、薄茶色の樹液がたれた。

洋介はハンカチでナイフを拭き、イチョウの傷口を手でぬぐった。

手をなめるとイチョウの苦い味がした。
  


Posted by 三河ネコ  at 21:25第一章 ミコルカ工業

2012年01月15日

小説“悪霊”第二話


洋介が勤めるミコルカ工業株式会社本野ヶ原(ほんのがはら)工場は愛知県豊川市にある。

豊川市は、愛知県の県庁がある名古屋市から名古屋鉄道の特急で約50分、愛知県東部に位置する人口10万人ほどの中核都市だ。

かつて豊川市の中部には海軍の兵器工場があった。戦後その跡地を整備して作られたのが本野ヶ原工業団地。その団地の中ほどにミコルカの工場がある。

ミコルカは精密機器の製造を手がけるメーカー。
本野ヶ原工場では、家電の内部に使用される電子回路の製造販売を行っていた。
そして洋介らが働くセクションでは電子ジャーの電子回路を製造していた。

長野県の飯田市で作られたコンデンサー、豊橋市の柳生橋(やぎゅうばし)で加工された配線、そして豊川市の中小企業で焼入れされたプリント基板、などなど工場に入荷し、それらをベルトコンベアで送りながら固定し一つの製品に仕上げるのが洋介たちの仕事だった。

ミコルカの工場は大手から中小まで各家電メーカーから注文を受け付けている。

中田電機の新商品、サクサク電子炊飯器も、鈴木コーポレーションの話題の電気ジャー、コメコメクラブ電気ジャーもミコルカ工業の電子回路を使っていた。

元号が昭和から平成になったこの年、家電の販売は絶好調。

1986年からはじまった景気拡大を受け、人々の暮らしは上向き、それまで人々の心の中にあった質素倹約の信仰が薄れ、大衆はお金でより豊かな生活を手に入れようと動き出していた。

電子炊飯器など家電製品は作る端から売れた。

ミコルカ工業には毎日千単位の注文があり、そのため洋介たちの職場は活気がみなぎり、工員達は製造に明け暮れる日が続いていた。


洋介は家に帰るとすぐに自分の部屋にかけ上がり、部屋のドアを閉めた。

そして、机の下からカセットテープを取り出しデッキに入れた。スピーカーからは、ブルーハーツの“リンダ・リンダ”が流れ、その快活なリズムに洋介は一日の疲れが癒されるのを感じた。

体から力がこみ上げてくる。洋介は歌詞を口ずさみながらボーカルの甲本ヒロトのように絶叫した。

歌い終わるとやや気分が落ち着いた。


次に洋介はテレビの前のテレビゲームの電源を入れた。

ゲームをしている時が一番楽しい。

子どもの頃はインベーダーゲームに熱中していた。

今は任天堂のファミリーコンピュータだ。

ファミリーコンピュータが発売されたのは、6年前の1983年7月。

当時、18歳の高校3年生だった洋介は、家庭でできる本格的テレビゲームとの売り文句に胸弾ませ、アルバイトで貯めたお金をはたいて買った。

発売当初、ファミリーコンピュータのメーカー希望小売価格は14,800円。いくらで買ったのかもう覚えがないが、1万円は超えていたと思う。

高校生だった洋介にしてみれば、けっして安い買い物ではなかった。

でも、洋介はファミリーコンピュータを買ったことを後悔したことはない。

そのため専門学校でコンピュータを習う気になったし、今まで夢らしきものを持ったことがない自分がたとえひと時であったとしても、ゲームを作りたいという夢らしきものを持てたことを誇らしく思っていた。

それまでのゲームといえば、インベーダゲームのようなごく簡単なものに限られていた。

それがファミリーコンピュータでは、あたかも自分がそのテレビの中の主人公になったかのような感覚で、さまざまな仮想現実を体験できる。

説明書を読みテレビに接続し、画面を開く。

まず目に飛び込んできた画像に洋介は圧倒された。

たぶんこれは洋介がはじめて見る仮想現実の世界だったのだろう。

学校でも家でも友人間でも目立たない洋介がテレビゲームの中では英雄になれる。

洋介はそれ以来、三度の飯よりテレビゲームが好きになった。

スパルタンX、ファイナルファンタジー、ドラゴンクエスト、全部お気に入りだが、

その中でも、スーパーマリオブラザースは特に好きだった。

ゲームの中のマリオは、身長の10倍ジャンプし、一蹴りでキノピオを踏み潰す。

快感である。

最終場面でクッパ大王を倒した時など、洋介は大好物のイチゴのショートケーキを買ってきて一人で祝ったものだ。


そんな洋介の学歴は専門学校卒。

洋介の出身高校は地元でも悪名高いバカ高校。受験に失敗した学生が最後に落ち着く私立高校だった。

学校はつまらなかった。

頭をリーゼントにばっちりきめたヤンキーと呼ばれる不良少年が肩で風を切って歩きまわり。

弱いものをみつければちょっかいを出し、バイクの話、女の話、武勇伝などを大声で話しては授業の妨害をしていた。

学校の先生はただ一人、黒板に向き合ってもくもくと文字を書く。

ときどき、先生の横腹に紙飛行機がぶつかる。

そこには、

かずき&ひとみ I love you.

なんて書いてある。

どんな真面目な教師もやる気をそがれる最悪な学校だった。

洋介は勉強が嫌いなほうではなかったが、ただなんとなく生きてきただけであり、高校受験もがんばらず、ただなんとなくこのバカ高校へ入っていた。

そしてただまわりの雰囲気に流されるまま、なにも勉強らしきものをしなかった。

当時は、そんなバカ高校でもちゃんと企業からの求人が来ていたし、みんな、年齢が来ると卒業し、地元の工場へと就職することになっていた。

バカをやって騒いでいる連中も、それが今だけのことは十分知っていた。

だから無駄な勉強などせず、ただ今を楽しく生きていたのだ。

そして誰もが、いずれ社会人になり人間性を否定され企業の単なる歯車の一つになることを、まるで思い出したくない悪夢のように感じていた。

将来のことをなるべく何も考えないようにして生きていた。


洋介も高校2年生までは彼らと同じく何も考えず、18歳で高校を卒業し地元の工場に就職するつもりでいた。

しかし高校3年生の時、洋介はファミリーコンピュータと出会い、彼の人生の目標は大きく変わった。

“ファミリーコンピュータのソフトを作りたい”

洋介は初めて夢らしきものを抱き、その夢を実現するため、今をときめくコンピュータ関連の専門学校へと進んだ。

本当は大学のコンピュータ関連学部に行きたかったのだが、勉強するという気力がない洋介は、そのための努力をしようとは思わなかった。

何もしなければ、ただお金稼ぎのために生徒を募る専門学校しか行けない。

洋介は競争ということが嫌いだった。生来の温和な性格が彼をそんな気持ちにしていた。


洋介は専門学校ではとりたてて目立たない生徒だった。

学校の授業など上の空、仲間とテレビゲームの話題で盛り上がり、アルバイトで貯めたお金でゲームとゲームの攻略本を買いあさった。

それに学校の授業は洋介にとって退屈なものだった。

洋介は専門学校で何か役立ちそうな知識を学んだ覚えがない。

当時のコンピュータは、クリックひとつでどの画面へも飛んで行けるウインドウズではなく、C言語など特殊な言語で起動する複雑なものだった。

ゲームと直結しないこれらの技術に洋介は嫌気がさしていた。

そして就学してから2年で卒業の時を迎えた。

コンピュータ関連の会社は大卒しか採用しておらず、洋介たちにその門は開かれていなかった。

当時のコンピュータ関連職はコンピュータ言語を操る特殊技能職であり、その需要は限られていたからだ。

結局、洋介はかつての高校の同級生と同じように工場の一工員として地元企業に就職することになった。

なんのための専門学校だったか分からない。

でも、同じゲームの趣味を持つ仲間と過ごした楽しい思い出は洋介の青春そのものだった。

洋介が就職したのは、3年前の1986年4月、20歳の時だった。


ある時、工場の喫煙室でこんな話題が出た。

「なんで俺達、ミコルカの工員なんかになっちゃったんだろうかね?」

「洋ちゃんは何か強い希望があってこの工場に入ったの?」

洋介はしばらく考えた。

洋介はファミリーコンピュータのソフト作りがしたかったのだが、専門学校卒の彼にその分野への就職口は開かれておらず、しぶしぶ実家から通える地元の工場で働くことにした。

どうしてミコルカの工場を選んだかというと、たまたま専門学校の就職活動センターでここの求人を見つけ、なんとなくそれに応募したら受かっただけである。

意識的に希望したり、会社の将来性を考えてこの工場に就職したわけではない。

そして、こんな言葉が口を突いて出た。

「ただなんとなく過ごしていたら、今、ここにいるんだよね」

洋介はその言葉を思い出すと、それこそ真実だったのではないかと思う。

テレビゲームのソフト開発をしたいという夢を抱いたといっても、それが本当に現実的な夢だったのだろうか?

結局、自分の運命は一工員だったんじゃないか?

人生、自由なようで実はあまり自由ではない。

何か強い力にひっぱられてきたような不思議な感覚を洋介は絶えず持っていた。


晩の12時。寝床に入る前、洋介は財布をまさぐった。

洋介は、先月の給料日、銀行のATMから数万円を引き出し机の中に入れていた。

洋介は、銀行の封筒を取り出すと、中から1万円札を取り出し、印刷されている福沢諭吉の顔を眺めた。

健太郎に貸せば返ってこないことは分かっている。

でも貸さないと後が恐ろしい。

明日になればなんとかなるさ。

洋介は1万円札を財布にしまうと、寝床に入った。

明日は健太郎に会いたくない。

会わずにすめばいいのだが。

目覚まし時計を午前7時にセットし、洋介は眠りについた。
  


Posted by 三河ネコ  at 21:28第一章 ミコルカ工業

2012年01月22日

小説“悪霊”第三話


翌朝、洋介は午前6時に目が覚めた。

目が覚めると寝床から跳ね起き、手提げかばんの中に入れておいた財布を出した。

財布から1万円札を取り出すと、1万円札に印刷してある福沢諭吉の顔を眺めた。

今度こそは決して健太郎に貸さないぞ!

そう心に誓ってはいるものの、健太郎の恐ろしい形相を思い浮かべると、やはり心が揺らぐ。

1万円貸して怖い思いをせずやり過ごせるなら、1万円渡したほうがいいかも。

これは方便だ。1万円貸して難を逃れるという方便だ。嫌な思いをするより、プライドを抑えたほうが得だ。

自分の弱気を正当化する言葉が頭の中でささやく。

もしどうしても健太郎が怖かったら、今度だけ貸してもいいんじゃないかな?

でもまあ、1万円札を財布に入れていないと貸さない選択しかできなくなるわけだから。

選択肢を残すために1万円札を入れておこう。

1万円札を再度財布に入れ手提げかばんの中に戻した。

「ちぇ健太郎なんていう悪党、死んじゃまえばいいのに」

一言吐き捨て、再度布団にもぐりこむ。


この日、洋介は仕事中気が気ではなかった。

仕事が終わった後、来るであろう健太郎のことを思うと心が凍った。

「洋ちゃん、製品がたまっているよ。早く流してくれないとこちらがつかえちゃう」

「あ、ゴメン。急いで回すよ」


昼の休憩中、喫煙室でタバコを吸っていると浅井卓磨が入ってきた。

卓磨はつい2週間前に入社した新入りだ。

歳は洋介より2つ年上の26歳。

澄んだ鋭い目つきに180cmはあろうかという身長。筋肉質で無駄のない体。

新入りのくせにおどおどとしたところがなく、誰に対しても冷たい視線を投げかけていた。

当然、工員の間では好き嫌いが別れ

あいつはお高くとまっていると非難する人もいれば

なかなか味があっていいんじゃないと評価する人もいた。

しかし、彼は誰とも接しようとせず、いつも一人だった。


卓磨はマイルドセブンを取り出すと先端に火をつけ、換気扇に目を移した。

「きたないな。誰も掃除しないのかよ」

卓磨は1本吸い終えると、手に持ったドライバーで換気扇をはずしだした。

洋介はその一部始終を見ていた。


彼は調理室から雑巾を持ってくると丹念に換気扇を磨きだした。

油汚れを取るため、洗浄剤をつけては拭く。そして再度水洗いをしに調理室へ持っていった。

“浅井さんは綺麗好きな人なんだな”洋介はそんな卓磨の様子を眺め感じ入っていた。


終業のベルが鳴り、とうとうその時間が来てしまった。

通路を歩いている洋介を健太郎がつかまえた。

「洋介、1万円持ってきただろうな」

「俺に貸せよな」

「健さん、前貸した1万円返してからにしてくれない?」

「なんだ貴様、俺に逆らおうっていうのか?」

すかさず健太郎のケリが洋介の左足を打った。

洋介はうろたえた。

洋介は強い恐怖に身を震えさせ、泣き出さんばかりの顔になった。

「健さん今度だけだからね」

ふところに手を入れてみると・・・

財布がない。

「健さん財布忘れたよ」

「なんだと、お前財布忘れただと」

「明日、ちゃんと持って来いよな!」

健太郎は不快な顔をしてその場を去っていった。


いったいどこに財布置き忘れたんだろう?

洋介は、工場へと向かうため、通路を駆け出そうとしたその時

少し離れたところから健太郎と洋介の一部始終を眺めていた卓磨が洋介を呼んだ。

洋介が来ると、卓磨は洋介が落とした財布をふところから取り出した。

「井田くん、これ喫煙室に落ちていたよ。」

「浅井さんありがとう。」

「いったいどこに落ちていたの」

「換気扇付近の床の上だよ」

卓磨が換気扇を洗うのを眺めていた時、洋介はうっかり財布を落としてしまったようだった。

中を確認してみた。1万円札も他の小銭もカード類もなくなっていない。

洋介はお礼を言って別れようとすると、卓磨は一言。

「なんか今は俺が持っていてよかったみたいだね」

洋介は一つ苦笑いをした。

洋介は卓磨と話すのはこの時がはじめてだった。

洋介の苦笑いを見て卓磨が言った。

「井田くん、もしかして、昨日、わざわざ1万円札を財布に入れるようなことしなかったかい?」

「実は俺、今一部始終見てたんだけど、ちょっと思ったのが、井田くん、鈴木のヤツに脅されて、その脅しにのって、普段財布に入れていない1万円札をわざわざ財布に入れてきて、それでそわそわして喫煙室に落しちゃったんじゃないかって」

図星だった。洋介は正直に告白した。

「見られちゃたな。実はその通りなんだ。」

「恥ずかしいな。人には言わないでね」

照れる洋介の様子をみて卓磨はやや機嫌を悪くした。

「井田くん、これはそんな照れている場合じゃないの!もっと大事な話」

「明日は絶対に1万円札を持ってきちゃダメだよ」

「鈴木のヤツにはないって言えばいい。財布忘れたじゃなくて、貸したくないってね」

「もし無理なら無言でもいいよ。でも絶対貸しちゃダメ」

「大丈夫、明日は俺もついているから、鈴木のヤツが手を出したら助太刀してやるよ」

「ただ一つ、1万円は絶対に持ってこないこと」

突然の卓磨の申し出に洋介はひどく狼狽した。

なんで浅井さんは初対面の俺にこんなにもしてくれるのか?

ただの正義感からなのか?それとも何か下心があってのことか?

浅井さん、見た目は冷酷そうだけど、似合わないことをする人だな。


洋介は家に帰った。

気持ちは決まっていた。

明日は1万円札を持っていかないことにした。

手提げかばんから1万円札を取り出すと机の引き出しに入れた。

浅井さん、身長180cmもあって強そうだから、健太郎が来ても、あの人が助太刀してくれるなら大丈夫だ。

なんかよくわからないけど幸運だね。

その日、洋介はぐっすり眠った。
  


Posted by 三河ネコ  at 23:06第一章 ミコルカ工業

2012年01月29日

小説“悪霊”第四話


今日は昨日以上にそわそわしている。仕事など上の空。何度、修に注意されたか分からない。

“おい井田、今日のお前はどうしたんだ。いつもにも増して動作が鈍いじゃないか?”

“昨日、夜更かしでもしたのか?目をパッチリ開けてしっかりやれ”

光一はいつもにもまして洋介の尻拭いに忙しい。

洋介もすまないと思うのだが、何分、体が言うことを聞かない。

昨日はあれだけ恐ろしい思いをした。昨日はちょっとした事故だったが、今日は“自分の意志で”断らなければいけない。

あの極悪非道のチンピラ健太郎がそうやすやすと許してくれるだろうか?

それを思うと手は棒のように固まってしまう。

“洋ちゃん、頼む早く回してくれ。これじゃ俺たち帰れないよ”

光一の悲鳴にも似た叫びが響く。


終業のベルが鳴った時、洋介は身震いを感じた。

今日こそ健太郎と勝負だ。

壁側の作業台に座っている健太郎は、先ほどから洋介の顔ばかり見ている。

洋介は気づかないふりをしていた。


帰りがけ、昨日と同じ通路で頃合を見計らって健太郎が洋介に声を掛けた。

「洋ちゃん。今日は忘れたなんて言わないよね?」

洋介は心が凍った。何も答えられない。

あれほど健太郎からの申し出を突っぱねる言葉を頭で思い描いていながら、その一つも出てこない。

「おい!洋介、1万円貸してくれよな」

洋介の頭は真っ白になってしまった。

「早くお金出せよ」

健太郎の催促がはじまる。

健太郎の目つきがだんだん険悪になってくる。

「おい!無言でつっ立ってないで、金出せよな」

すかさず健太郎のケリが洋介の左足に入る。

洋介はうろたえた。

でも、恐怖で身も心も凍えながら、何も言葉が出てこない。

今日は1万円を持っていない。卓磨が遠くで見ていることを考えれば、昨日、あんな約束をした手前、忘れたと嘘をつくことは恥ずかしい。

それに、その時、洋介にははっきり分かっていた。

もしここで1万円を忘れたと嘘を言えば、一時的には難を逃れることができるが、そうしたら、自分の人生すべてが崩れてしまう。

殴られてもいい。殺されてもいい。ここは耐えなければいけない。

決死の覚悟で洋介は黙り込んだ。


健太郎は洋介をにらむ。

そして口汚く罵る。

「洋介、お前、俺が今まで恩をかけてやったことをよくも忘れやがって、もうお前みたいな奴はかまってやらないぞ」

そしてすかさず右頬にパンチが飛んできた。

洋介は痛いより怖いとの一心で体が硬直してしまい、ただ殴られるままだった。


パンチは一発だった。

健太郎は洋介をにらみ、また口汚くののしった。

「この野郎、覚えておけよ。絶対めちゃくちゃにイジメてやるからな」

健太郎は洋介を蹴飛ばし去ろうとした。


その時、卓磨が健太郎を呼び止めた。

「お金貸せないのが友人じゃないなんて言って、お前は道徳的になっていないと責める」

「俺がお前に恩をかけてやっただと。そりゃ、いったいどんな恩だい?」

「俺に詳しく話してくれないか?」


健太郎は卓磨の胸倉をつかんだ。

「貴様、何が言いたいんだ」

「俺を怒らすと怖いぞ!」


卓磨は笑って健太郎の手をふりほどいた。

健太郎は相手の様子を見て、これは脅せる相手ではないとさとった。

「おいお前、浅井とか言ったな。新入りのくせに。よく覚えておけよ」

健太郎はそう言い捨てると、そくさくと通路を走り抜けていった。


卓磨は洋介のほうを見た。

「井田くん、よくやったね。たいしたものだよ」


まるで糸の切れた風船のように、一気に洋介の緊張はほどけ、とめどもなく言葉が湧き上がってきた。

「浅井さん、助っ人してくれると言っていたのに、なんで今まで出てきてくれなかったの?」

卓磨は、一つ一つそのわけを話しだした。

「俺が出てとめたとしても、もし井田くんがきっぱり断る姿勢をとらなかったら、あいつ俺がいないところできっとまた同じことを繰り返すよ」

「それに、これは俺の問題じゃない。井田くんが解決しなきゃいけない問題だ。俺が解決したとして、それで井田くんの誇りが保てる?」

「自分で闘い傷ついてはじめて尊厳っていうものが持てると思う」

「だから俺は最後まで手を出さなかったんだよ」

「でも本当、よかったよ。もし井田くんが途中で投げ出して、明日持ってきますなんて言い出したら、たぶんもう俺にはどうすることもできなかった」

「井田くんは落ちるところまで落ちていくしかなかったと思う」

洋介は卓磨の真意をつかみ顔を赤らめた。


その頃、洋介からお金をたかれなかった健太郎は、次なるカモを探して通路をきょろきょろ見回していた。

通路には幾人かの人通りがあったが、カモにするのに適当な人物がなかなか見つからない。

健太郎は出口の柱にもたれかけると、逐一工場を出て行く工員を眺めていた。

健太郎が前方を眺めると、星野太一が目に入った。

太一は健太郎が門のところにいるのを見つけると、そくさくと裏口のほうへとさりげなく歩き出した。

健太郎は足早に太一のもとにかけつけた。

健太郎は太一をつかまえると先ほど洋介にしたと同じ言葉を繰り返した。

「太一くん、俺に1万円貸してくれよな」

太一は顔面蒼白になった。

健太郎の顔に笑みが浮かんだ。

「健さん、1万円って言たって、前に貸したお金、まだ返してくれていないじゃん」

「とりあえず前かしたお金返してからにしてよ」

健太郎は眉間にしわを寄せるとまたいつものように脅しだした。

「何!俺に貸せないだと。この野郎」

すかさず太一の左足に健太郎のケリが入った。

太一は顔面蒼白でただ押し黙っていた。

健太郎は太一の頬を殴った。

太一は泣き出しそうな顔になった。

もう少し脅せばお金がたかれる。

健太郎は恐い目をしながら、心の中でほくそえんだ。

もう一発太一のほほを殴ったとき、太一はとうとう財布に手を伸ばした。

「健さん。今回だけだからね」

太一が一万円札を健太郎に渡そうとした瞬間。

予期せぬ出来事が起こった。


卓磨が太一の手から1万円札をひったくったのだ。

それまで卓磨がつけていたことを健太郎は知らなかった。

「この野郎!また俺の邪魔をするのか?」

健太郎は勢いあまって卓磨に殴りかかった。

卓磨は体をひねらせるとするりとよけ、健太郎の足を払った。

健太郎はもんどりをうってしりもちをついた。


健太郎が卓磨に殴りかかろうとした瞬間、修がすっとんできた。

「お前ら何やっているんだ!」

修は健太郎を引き離すと、ケンカの詳細を聞きだした。

「なんでもないんだ。修さんには関係ないだろ」

健太郎は口早に言うと、卓磨をにらんだ。

卓磨は平然とした様子で修に向かって言った。

「上条さん。本当、何でもないですよ」

修はいつもながらぐだぐだ道徳論を話しだした。

「工員は仲良くしなきゃいけない。お前ら友達にならなきゃいけない」

「おい仲直りの証拠に握手しろよな」

健太郎もこれ以上修の説教が聞きたくなかったので、しぶしぶ手を差し出した。

卓磨の手を握ると、まるで汚いものでも触ったかのように振り払った。

「こら!仲良くせんといかんだろ!」

「お前ら2人にしておくと、またいつかケンカしだすか分からない。おい!鈴木、俺についてこい」

「なんで俺が修さんについていかなきゃいけないの?」

「説教は勘弁」

「とにかく来い」


修と健太郎が去ると、物陰から洋介が出てきた。

太一はあまりのことに呆然としていた。

卓磨は手の中でぐしゃぐしゃになった1万円札を伸ばし伸ばし、太一に手渡した。

「なんで健太郎にお金貸そうとしたの?」

「俺、健太郎くんが恐くて・・・」

「健太郎のヤツ、弱いものからたかっては小遣いにしてるんだぞ。貸す人がいるからのさばる。この工場から恐喝を排除するためには、星野くんも負けちゃダメだよ」

「でも、健太郎くん恐いから・・・」

卓磨は悲しそうな顔をした。


太一が帰った後、卓磨は洋介に語った。

「健太郎のヤツ、星野くんを落としにくるよ。きっと。あの分だと次回はダメかもしれない」

「なんで浅井さんは健太郎の恐喝を妨害するの?」

「井田くんは仲間が恐喝されていても何も感じないの?」

洋介は答えられなかった。

洋介は、恐ろしい不良どもに逆らうのが恐くて、ただ、自分が被害にあわないことだけを祈っていた。

洋介は、他人が被害にあっているのを見つけると、なるべく見ないようにして、道を変えて彼らの視界から消えるのが常だった。
  


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