2012年01月08日

小説“悪霊”第一話


ミコルカ工業では一日の業務が始まろうとしていた。

信号待ちの車の連なり、駐車場から工場へ向かう人の列、始業前の雑踏が辺り一面に広がっている。

井田洋介はミコルカ工業で働く工員の一人だ。

洋介はごく平凡な24歳の青年。目はいくぶんかぼんやりしており、やや生気を失っている。

単調な日々に退屈し、何か新しいことを望みながらも何もできない。

そんな世の中の大部分を占める凡人の一人である。

世の中はバブル景気に浮かれ、日本の未来は明るいと一部の人たちはしきりに唱えていた。

でも、そんなことは庶民には関係ない。庶民には日々の暮らしがあるだけだ。

洋介もそんなことはどうでもよかった。

彼にはただ単調な毎日があるだけであり、彼にとっては今日一日を無事に過ごすことだけが関心事だった。

そして今の彼の最大の関心事は、ただ遅刻しないで工場に行くことだった。


午前7時45分。静まり返った工場の通路に人影はない。

工場を入り左手の駐車場が従業員専用駐車場になっている。洋介は車を駐車場に止めると、眠い目をこすりながら、工場の門へと走った。

始業は午前8時。今はもう午前7時50分。静まり返ったアスファルトの通路を作業場へと急ぐ。

会社の規則では、従業員は更衣室で作業服に着替えてからタイムカードを押すことになっている。

しかし洋介は作業場に入ると更衣室ではなく一直線にタイムカードへと向かった。

洋介が勤めるミコルカ工業の出社は午前8時だが、実際の始業は午前8時30分である。この間の30分間、工場内には工場長の訓示が流れ、仕事に対する心構えを新たにする時間となっている。

不真面目な従業員は8時少し前やってきてタイムカードだけ押して更衣室で雑談してから8時30分ぎりぎりに持ち場に着く。

しかしそれも上条修が来るまでのことだった。

修は40代後半の小柄な男でなにかと規則にうるさい。彼は毎朝タイムカードのところにいては、不真面目な工員が来ると、彼が着替えて来るまでタイムカードを押させなかった。

タイムカードのところには、修が待っていた。

洋介がタイムカードを押そうとすると修がその手をおさえた。

「おいお前、タイムカードは着替えてから押せよ!」

洋介は修をふりきりタイムカードを押した。

怒った修は洋介からタイムカードを取り上げた。

洋介はむすっとした顔で修を見た。

「なんだお前そのツラは?俺に文句でもあるのか?」

修はいつも規則にうるさい。

「修さん。ちょっと遅れただけ。勘弁してくれな。」

「井田、着替えて来い。」

洋介はしぶしぶ更衣室に行き作業服に着替えて来た。

洋介が着替えてきたのを見ると、修はちらりと壁にかけてある時計を眺めた。

「井田、今は何時だか知っているのか?おい、もう8時10分だぜ。ここに8時10分ってちゃんと書いておくからな!」

「修さんそりゃないよ。どうせ朝の30分間、工場長のくだらない訓示やら体操やらするだけじゃないか」

「もう次回から守るから今回だけは勘弁な」

「お前はアホか?規則は規則じゃい。井田、出勤8時10分、10分遅刻」

「修さん待ってくれよ。俺、今月もう3回遅刻。やばいよ」


ミコルカ工業では1カ月に3回遅刻すると、残業代が20%オフになる。

5回すると上司からの訓戒があり、10回すると不良工員ということで、解雇の事由になる。

普通10回するような工員はいないだろうと思われるかもしれない。

いやいや、ミコルカの工員はできが悪い。

平均遅刻回数月20回の強者がいる。会社に反抗してツッパっているとしか思えない。

彼は、出勤日数のほぼすべて遅刻している。しかも10分程度ではない。普通に1時間、2時間遅刻する。

彼はまったくやる気がないのだ。ゼニさえもらえればいいと甘えきっている。

彼は後で登場する人物だが、ここではこれ以上説明しない。説明はその時にしようと思う。


しかし、洋介は神経がか細く、遅刻するくせに完璧主義者で遅刻を気にする。

そんな洋介に対し修はすげなく答えた。

「俺の知ったことか。遅刻するお前が悪い。」

そう言うと修は赤いボールペンで数字に斜線を引き横に午前8時10分と書き遅刻の印を押した。

洋介は近くにあった空き缶をけ飛ばし、持ち場へと向かおうとすると、修が呼び止めた。

「井田、物にあたるなよ!物は大事にしろよ!物づくりに携わる工員の常識だろ」

修は腰に手を当て、目を吊り上げて怒りをあらわにしている。

「修さん、空き缶ぐらいけったっていいじゃないか」

洋介はふてくされた表情で修の目を見ず、吐き捨てるように答えた。

その態度が修の怒りに火を注ぐ。

「ばかたれ!その心がけがいかん」

修は大声でそう叫び、洋介を恫喝した。

修の汚いつばが洋介の顔にかかった。

修のカレン臭が洋介の鼻をつく。

洋介はハンカチを取り出すと顔にかかったつばをはねのけ、修のカレン臭を払うと、そくさと作業場所へと向かって歩き出した。


朝のラジオ体操は誰もやらない。

工員は皆、壁に寄りかかっては雑談している。

田中光一は、地面を眺め野球玉ほどのゴムボールをけって遊んでいた。

コンクリートの地面にはチョークで線が引かれ、空き缶と工具で迷路が描かれていた。

ゴムボールをけって、迷路の中央の空き缶にあてるという遊びだ。

修が来ていらい遅刻できなくなった。貴重な時間を少しでも楽しもうとする光一の考えだ。しかし、もう100回も同じゲームをしているため、光一は数回けるだけで中央の空き缶にあてるまでになっていた。最近、光一はこの遊びに飽きてきた。

手持ちぶたさに入口を眺めていたら、ちょうど修と洋介のいざこざが目に入った。

光一の持ち場は洋介の隣だ。

光一は洋介が遅れて来たのに気づくと声をかけた。

「洋ちゃんダメだよ。オサムッチのヤツ、絶対ゆずらないから」

洋介は無言でうなずいた。


午前8時30分。ベルトコンベアが動き出し、プリント基板が回りだす。洋介が担当するのはA,Bという部品を取り付けはんだで固定する仕事だ。

次から次へと部品が運ばれてくる。洋介は要領が悪い。

昔からそうなのだが、誰よりも飲み込みが遅く、生来ののんきな性格のせいか動作も遅い。

修がやってきた。

「おい井田、まだ寝ぼけているのか?お前他の連中より1分遅いぞ」

「お前のせいで作業が1分遅れると1日に100個製品が遅れる」

「100個の損失は1万円だぞ、その分じゃお前に給料は払えないぞ」

「お前分かっているのか?早くしろ」

修は洋介が属するセクションの監督。今日はタイムウォッチ片手に一人一人の作業のスピードを計っている。

洋介の隣を受け持つ光一は必死で製品を送り出し、少しでも洋介の遅れを取り戻そうとしている。

洋介はプリント基板を取り上げ、一つ一つチェックしながら部品をつける。几帳面な性格のため、不安になると2度、3度と基板をチェックする。

その間にやらなければいけない作業はつぎからつぎへとたまる。

修が叫ぶ。

「井田、お前、前がつまっているじゃないか、急げ」

あせるとなお作業がはかどらない。


午前8時50分、鼻歌を歌いながら鈴木健太郎がやって来た。

彼が口ずさむのはいつもヘビメタのキチガイじみた歌詞ばかり、

健太郎は、金髪に染めた髪を立たせ、きらびやかなアクセサリーをじゃらじゃら揺らし、

作業着を着てはいるものの、作業着の背中には龍が描かれ、とてもまともな工員には見えない。


ミコルカは工員を大事にする会社との売り文句だが、実態は、ただ工員の管理をおろそかにしているだけ。

いくら工場長が綱紀粛正を訴えても、それに従わない従業員は多い。

工場長は毎月の報告書で、ウソばかり報告しなければいけない。そうしないと評価を落とされる。

“整理・整頓・清潔の行き届いたすばらしい職場環境です”


健太郎のラインの班長を務める幸助は、二人分働かなければいけない。

健太郎はいつも遅刻する。

班長の幸助は彼がいない間、彼の穴埋めをしなくてはならない。

幸助は困ったような表情で健太郎に哀願する。

「健太郎くん、困るなぁ。遅刻しちゃ。次回から遅刻しないで来てね」

健太郎は、幸助の顔も見ない。

そのまま作業場につくと幸助を押しのけ、作業を始める。

1つ部品をくっつけると、次に回す。

早い。普通の人の2倍の速さだ。

作業が早く終わるので、健太郎はタバコをくわえ、歌を口ずさんだ。

なるほど余裕かましているとは、相当、有能な工員なのか?

・・・そんなわけはない。ただ材料を横に流しているだけだ・・・。

幸助は健太郎の隣にいて、一生懸命、健太郎がつけた部品を確認している。

「健太郎くん、ちょっとこれ困るよ。ちゃんとつけてくれないと売り物にならないよ」

恐る恐る幸助が言う。

「てめぇ。何俺に口きいてるんだ。貴様が直せばいいだろ」

健太郎は上司の幸助に向かってそう叫ぶ。

ラインの全員は慣れっこだ。

皆、あきれ顔で自分の作業をこなす。

本来班長の仕事とは工員の管理だが、このラインでは班長の幸助は始終、健太郎のおもりをしている。

班長の仕事は、健太郎と幸助以外の誰か手の空いた人が行っている。

だから、監督できていない。

普通、突然の便意などを催した工員は班長と交代することになっている。

しかし、このラインではそれができない。

もし下痢にでもなれば、おなかをかかえ、脂汗をかいていなければいけない。

そして、耐え切れなくなると、その場から逃げ出す。

製品はそのまま流れ、ベルトコンベアから落ちる。

安全装置が作動して、工程が止まる。

ブザーは三回

ブー、ブー、ブー

昨日は1日で10回止まった。これでも少ない方だ。

今日は何回止まるだろうか?


午前9時、ミコルカ工業のドン、桜木武雄がやってきた。

今日は1時間の遅刻。めずらしいことではない。

この人物が先ほど紹介した遅刻魔。魔の武雄さんである。

この男はいつも遅刻する。しかも普通に1時間遅刻する。ひどい時は無断で欠勤する。

会社の規則では月10回以上遅刻すると解雇理由になるという。

しかし、この国の法律では正社員は過剰に保護されており、実際、解雇される工員はいない。

武雄はそのことを知り尽くしている。ワル賢い確信犯だ。



ミコルカ工業では同じ工程を行うセクションが4つあり、洋介たちはDセクションに属している。

一日の作業が終わった後、出来高を集計してみると、Aセクション1,100個、Bセクション1,200個、Cセクション980個、そしてDセクションはなんとたったの700個。

Dセクションには井田洋介、桜木武雄、鈴木健太郎と作業効率が悪い工員が3人もいる。

毎月の出来高を比べると断トツべり。

修はDセクションの監督であり、修はいつもそのことに腹を立てている。

今日も集計表を見て不機嫌だ。


終業後、修は洋介、武雄、健太郎の3人を別室に呼んだ。

「おい!井田、桜木、鈴木、お前ら遅刻はするわ、作業は遅いわ、そんなんじゃ金払えないぞ!まじめにやっているのか?」

「ちゃんと評価つけとくからな。分かったな!本当、お前らにゃ個別指導が必要だわ」

修の言葉に反感を覚えた武雄が修に口ごたえした。

「修さん、俺だってがんばっているんだぜ。ひどいこと言うなよ」

「桜木、がんばるなら数字で示せ」

武雄はするどい目線で修をにらむと、そくさくと作業場から出て行った。

「おい!桜木、まだ俺の話は終わってないぞ。戻って来い。ちぇ、あの野郎ふてくされやがって。くえねえ野郎だ。」

修は武雄が勝手に退出したことに腹をたて、近くにあった灰皿をテーブルにがつんと叩きつけると、なおも洋介と健太郎相手に説教を続けた。

修の説教は延々と10分も続いた。

修はグダグダと道徳論を語る悪癖があり、Dセクションの誰もがそれにはまいっていた。

洋介も健太郎もすっかり嫌気がさし、目線は地面を眺めたり窓の外を眺めたり、帰ってからなにをしようかとよそ事ばかり考えだした。

その態度を見て修は声を荒げてどなった。

「おい!真面目に聞いているのか?お前らクビにするぞ!」


修の話が終わると健太郎は逃げるように作業場を後にした。

洋介は、誰もいない作業場で一人、自分の持ち場の整理整頓をした。

洋介にはなんで自分の仕事が遅いのか分からない。

いつもやみくもに怒られるが、彼には何をすればいいのか分からない。

こんな時はいつも、胸をつかえるくやしさ、ふがいなさで心は落ち込む。

俺は何をやってもダメなのか?俺はダメ人間なのか?

洋介はノートを一枚破り、そこに“ダメ人間さようなら”と書くと、丸めてゴミ箱に捨てた。

捨てた後、ちょっと自分からダメ人間が離れていったような気がした。しかし、すぐに何も変わっていないことに気づいた。

やりきれない。タバコを一つ取り出すと口にあて、それに火をつけた。

白い煙が宙を漂う。

煙が洋介の臓腑に染み渡ると、洋介の体全体から力が抜けていった。

そしてしばらくすると、洋介は頭がくらくらしてくるような感覚を覚えた。

「タバコはいいや。最近毎日一箱は吸っているかもしれないけどな」

洋介は独り言をぶつぶつ言った。

そして、いくらか気分が落ち着いた洋介は作業場を後にした。


作業場と通路を隔てるビニールのシートをくぐり、作業場から更衣室に向かうと、そこでは武雄が洋介を待っていた。武雄は壁にもたれかけタバコを吸っていたが、洋介を見つけると、一息、口から白い煙を吐き、タバコを右手に持ち口を開いた。

「おう洋介か、またオサムッチに言われちまったな。へへへ、あいつ何かとうるさいからな。でも、ちょっと700個はまずいよな」

「洋介、お前、もう少し要領よく作業できないのか?」

「もう少し早くはんだをつけるとか、確認は確実に行い一度で済ませるとか」

「ああも言われちゃ、俺たちも仕事やりづらいんだよな」

「まあ、お前だけのせいじゃないけどな。なんとかならないものかね」

洋介はすごく嫌な気分がしたが、それがなぜだか分からなかった。

「桜木さんすいません。俺が悪くてみんなに迷惑かけて。俺がんばるよ」


修にしかられ、健太郎は機嫌が悪い。

健太郎は、手に持ったバイク関連の雑誌を丸めバシバシとひざに打ちつけ、修の悪口を言っていた。

「修のヤツ。それにしてもけったくそ悪いやつだな。今度、あいつの家に火でもつけたろうか?」

健太郎は、仕事中勝手に持ち場を離れたり、居眠りしたり、仕事がたまり面倒くさくなると、作業の確認もせずに次の担当に回した。

Dセクションの不良品の8割は健太郎のせいであり、そのためDセクションの不良品発生率は他のセクションの5倍であり、Dセクション生産量断トツべりの原因の一つとなっていた。

しかし、健太郎はそんなことはまったくおかまいなし。

ただ修にしかられたことを憎んでいる。


健太郎は、何かむしょうにやつあたりがしたくなった。

しかも、昨日パチンコで2万円もすってしまった後だ。

給料日までまだ2週間もあるというのに、健太郎はもう数千円しか手持ちのお金がなかった。

健太郎は、たかれるカモを探しに工場内を散策していた。

その時、ちょうど洋介が目に入った。


健太郎は洋介に走りよると、突然、洋介を後ろからつっついた。

「痛いな、誰?」

「うるさい、洋介、お前、俺に逆らおうって気じゃないだろうな」

「今度、1万円貸せよな!」

「分かったか!」

「そんな無茶苦茶な。健さんいつもそう言って返してくれたことないじゃないか?まずは前に貸した1万円返してからにしてな」

「なんだコイツ俺に逆らおうっていうのか」

健太郎は洋介の左足にけりを加えた。洋介はうろたえた。

「いやいや健さん堪忍や」

「おい!洋介、明日までに1万円もってこいよ」

それだけ言うと健太郎は、洋介から離れた。

洋介はくやしくてくやしくてしかたがない。

健太郎は、金髪の髪にちゃらちゃらしたピアスをはめ、見るからに恐ろしい。いつも力こぶをつくってはまるで自慢気に見せつけてくる。

実に嫌なやつだが、こんなやつに限って殺されない限り死ぬ気配はない。

クソ野郎、このバカ、ナイフでひと思いに突き刺せたらどんなに気持ちがいいだろうか?

洋介は何度も健太郎をナイフで刺し殺すことを夢想した。


洋介は大人になった今でも鉛筆を使っている。

そのため、いつも鉛筆削り用のナイフを懐にしのばせていた。

洋介は懐からナイフを取り出すと、近くにあったイチョウの木に突き刺した。

「おい!貴様なにしてるんだ!」

修がすっ飛んできた。

修はゴミ袋を持って工場内のゴミ拾いをしていた。修は規則を守るのが趣味のような男で、会社の壁に貼ってある工場内美化活動を絶えず実践しているのだ。

そんな修が工場の大事なイチョウ並木を傷つけている不貞のやからを発見したのだから心穏やかではない。

しかもその相手が先ほどしかったばかりの洋介だ。

修は顔に青筋を立てている。明らかに不機嫌だ。

「お前、会社の備品に傷つけるなよ!今度やったら始末書ものだぞ」

洋介は、健太郎に恐喝されていることを修に言おうかどうか迷った。しかし、恥ずかしいのと、健太郎の復讐が怖いので言わなかった。

「修さん。俺だってたまにゃきれることあるんだよ」

「お前が俺だってて言うことは、俺はいつもきれているという意味か?」

修は怒るとまるでやかんのように、顔を真っ赤にしてフーフー言い出す。すぐにも頭から湯気があがってきそうだ。

洋介は、おかしくてかすかに笑った。


洋介がイチョウの木からナイフを離すと、イチョウの傷口からは、薄茶色の樹液がたれた。

洋介はハンカチでナイフを拭き、イチョウの傷口を手でぬぐった。

手をなめるとイチョウの苦い味がした。


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Posted by 三河ネコ  at 21:25 │第一章 ミコルカ工業