2012年01月15日

小説“悪霊”第二話


洋介が勤めるミコルカ工業株式会社本野ヶ原(ほんのがはら)工場は愛知県豊川市にある。

豊川市は、愛知県の県庁がある名古屋市から名古屋鉄道の特急で約50分、愛知県東部に位置する人口10万人ほどの中核都市だ。

かつて豊川市の中部には海軍の兵器工場があった。戦後その跡地を整備して作られたのが本野ヶ原工業団地。その団地の中ほどにミコルカの工場がある。

ミコルカは精密機器の製造を手がけるメーカー。
本野ヶ原工場では、家電の内部に使用される電子回路の製造販売を行っていた。
そして洋介らが働くセクションでは電子ジャーの電子回路を製造していた。

長野県の飯田市で作られたコンデンサー、豊橋市の柳生橋(やぎゅうばし)で加工された配線、そして豊川市の中小企業で焼入れされたプリント基板、などなど工場に入荷し、それらをベルトコンベアで送りながら固定し一つの製品に仕上げるのが洋介たちの仕事だった。

ミコルカの工場は大手から中小まで各家電メーカーから注文を受け付けている。

中田電機の新商品、サクサク電子炊飯器も、鈴木コーポレーションの話題の電気ジャー、コメコメクラブ電気ジャーもミコルカ工業の電子回路を使っていた。

元号が昭和から平成になったこの年、家電の販売は絶好調。

1986年からはじまった景気拡大を受け、人々の暮らしは上向き、それまで人々の心の中にあった質素倹約の信仰が薄れ、大衆はお金でより豊かな生活を手に入れようと動き出していた。

電子炊飯器など家電製品は作る端から売れた。

ミコルカ工業には毎日千単位の注文があり、そのため洋介たちの職場は活気がみなぎり、工員達は製造に明け暮れる日が続いていた。


洋介は家に帰るとすぐに自分の部屋にかけ上がり、部屋のドアを閉めた。

そして、机の下からカセットテープを取り出しデッキに入れた。スピーカーからは、ブルーハーツの“リンダ・リンダ”が流れ、その快活なリズムに洋介は一日の疲れが癒されるのを感じた。

体から力がこみ上げてくる。洋介は歌詞を口ずさみながらボーカルの甲本ヒロトのように絶叫した。

歌い終わるとやや気分が落ち着いた。


次に洋介はテレビの前のテレビゲームの電源を入れた。

ゲームをしている時が一番楽しい。

子どもの頃はインベーダーゲームに熱中していた。

今は任天堂のファミリーコンピュータだ。

ファミリーコンピュータが発売されたのは、6年前の1983年7月。

当時、18歳の高校3年生だった洋介は、家庭でできる本格的テレビゲームとの売り文句に胸弾ませ、アルバイトで貯めたお金をはたいて買った。

発売当初、ファミリーコンピュータのメーカー希望小売価格は14,800円。いくらで買ったのかもう覚えがないが、1万円は超えていたと思う。

高校生だった洋介にしてみれば、けっして安い買い物ではなかった。

でも、洋介はファミリーコンピュータを買ったことを後悔したことはない。

そのため専門学校でコンピュータを習う気になったし、今まで夢らしきものを持ったことがない自分がたとえひと時であったとしても、ゲームを作りたいという夢らしきものを持てたことを誇らしく思っていた。

それまでのゲームといえば、インベーダゲームのようなごく簡単なものに限られていた。

それがファミリーコンピュータでは、あたかも自分がそのテレビの中の主人公になったかのような感覚で、さまざまな仮想現実を体験できる。

説明書を読みテレビに接続し、画面を開く。

まず目に飛び込んできた画像に洋介は圧倒された。

たぶんこれは洋介がはじめて見る仮想現実の世界だったのだろう。

学校でも家でも友人間でも目立たない洋介がテレビゲームの中では英雄になれる。

洋介はそれ以来、三度の飯よりテレビゲームが好きになった。

スパルタンX、ファイナルファンタジー、ドラゴンクエスト、全部お気に入りだが、

その中でも、スーパーマリオブラザースは特に好きだった。

ゲームの中のマリオは、身長の10倍ジャンプし、一蹴りでキノピオを踏み潰す。

快感である。

最終場面でクッパ大王を倒した時など、洋介は大好物のイチゴのショートケーキを買ってきて一人で祝ったものだ。


そんな洋介の学歴は専門学校卒。

洋介の出身高校は地元でも悪名高いバカ高校。受験に失敗した学生が最後に落ち着く私立高校だった。

学校はつまらなかった。

頭をリーゼントにばっちりきめたヤンキーと呼ばれる不良少年が肩で風を切って歩きまわり。

弱いものをみつければちょっかいを出し、バイクの話、女の話、武勇伝などを大声で話しては授業の妨害をしていた。

学校の先生はただ一人、黒板に向き合ってもくもくと文字を書く。

ときどき、先生の横腹に紙飛行機がぶつかる。

そこには、

かずき&ひとみ I love you.

なんて書いてある。

どんな真面目な教師もやる気をそがれる最悪な学校だった。

洋介は勉強が嫌いなほうではなかったが、ただなんとなく生きてきただけであり、高校受験もがんばらず、ただなんとなくこのバカ高校へ入っていた。

そしてただまわりの雰囲気に流されるまま、なにも勉強らしきものをしなかった。

当時は、そんなバカ高校でもちゃんと企業からの求人が来ていたし、みんな、年齢が来ると卒業し、地元の工場へと就職することになっていた。

バカをやって騒いでいる連中も、それが今だけのことは十分知っていた。

だから無駄な勉強などせず、ただ今を楽しく生きていたのだ。

そして誰もが、いずれ社会人になり人間性を否定され企業の単なる歯車の一つになることを、まるで思い出したくない悪夢のように感じていた。

将来のことをなるべく何も考えないようにして生きていた。


洋介も高校2年生までは彼らと同じく何も考えず、18歳で高校を卒業し地元の工場に就職するつもりでいた。

しかし高校3年生の時、洋介はファミリーコンピュータと出会い、彼の人生の目標は大きく変わった。

“ファミリーコンピュータのソフトを作りたい”

洋介は初めて夢らしきものを抱き、その夢を実現するため、今をときめくコンピュータ関連の専門学校へと進んだ。

本当は大学のコンピュータ関連学部に行きたかったのだが、勉強するという気力がない洋介は、そのための努力をしようとは思わなかった。

何もしなければ、ただお金稼ぎのために生徒を募る専門学校しか行けない。

洋介は競争ということが嫌いだった。生来の温和な性格が彼をそんな気持ちにしていた。


洋介は専門学校ではとりたてて目立たない生徒だった。

学校の授業など上の空、仲間とテレビゲームの話題で盛り上がり、アルバイトで貯めたお金でゲームとゲームの攻略本を買いあさった。

それに学校の授業は洋介にとって退屈なものだった。

洋介は専門学校で何か役立ちそうな知識を学んだ覚えがない。

当時のコンピュータは、クリックひとつでどの画面へも飛んで行けるウインドウズではなく、C言語など特殊な言語で起動する複雑なものだった。

ゲームと直結しないこれらの技術に洋介は嫌気がさしていた。

そして就学してから2年で卒業の時を迎えた。

コンピュータ関連の会社は大卒しか採用しておらず、洋介たちにその門は開かれていなかった。

当時のコンピュータ関連職はコンピュータ言語を操る特殊技能職であり、その需要は限られていたからだ。

結局、洋介はかつての高校の同級生と同じように工場の一工員として地元企業に就職することになった。

なんのための専門学校だったか分からない。

でも、同じゲームの趣味を持つ仲間と過ごした楽しい思い出は洋介の青春そのものだった。

洋介が就職したのは、3年前の1986年4月、20歳の時だった。


ある時、工場の喫煙室でこんな話題が出た。

「なんで俺達、ミコルカの工員なんかになっちゃったんだろうかね?」

「洋ちゃんは何か強い希望があってこの工場に入ったの?」

洋介はしばらく考えた。

洋介はファミリーコンピュータのソフト作りがしたかったのだが、専門学校卒の彼にその分野への就職口は開かれておらず、しぶしぶ実家から通える地元の工場で働くことにした。

どうしてミコルカの工場を選んだかというと、たまたま専門学校の就職活動センターでここの求人を見つけ、なんとなくそれに応募したら受かっただけである。

意識的に希望したり、会社の将来性を考えてこの工場に就職したわけではない。

そして、こんな言葉が口を突いて出た。

「ただなんとなく過ごしていたら、今、ここにいるんだよね」

洋介はその言葉を思い出すと、それこそ真実だったのではないかと思う。

テレビゲームのソフト開発をしたいという夢を抱いたといっても、それが本当に現実的な夢だったのだろうか?

結局、自分の運命は一工員だったんじゃないか?

人生、自由なようで実はあまり自由ではない。

何か強い力にひっぱられてきたような不思議な感覚を洋介は絶えず持っていた。


晩の12時。寝床に入る前、洋介は財布をまさぐった。

洋介は、先月の給料日、銀行のATMから数万円を引き出し机の中に入れていた。

洋介は、銀行の封筒を取り出すと、中から1万円札を取り出し、印刷されている福沢諭吉の顔を眺めた。

健太郎に貸せば返ってこないことは分かっている。

でも貸さないと後が恐ろしい。

明日になればなんとかなるさ。

洋介は1万円札を財布にしまうと、寝床に入った。

明日は健太郎に会いたくない。

会わずにすめばいいのだが。

目覚まし時計を午前7時にセットし、洋介は眠りについた。


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Posted by 三河ネコ  at 21:28 │第一章 ミコルカ工業