2012年01月29日

小説“悪霊”第四話


今日は昨日以上にそわそわしている。仕事など上の空。何度、修に注意されたか分からない。

“おい井田、今日のお前はどうしたんだ。いつもにも増して動作が鈍いじゃないか?”

“昨日、夜更かしでもしたのか?目をパッチリ開けてしっかりやれ”

光一はいつもにもまして洋介の尻拭いに忙しい。

洋介もすまないと思うのだが、何分、体が言うことを聞かない。

昨日はあれだけ恐ろしい思いをした。昨日はちょっとした事故だったが、今日は“自分の意志で”断らなければいけない。

あの極悪非道のチンピラ健太郎がそうやすやすと許してくれるだろうか?

それを思うと手は棒のように固まってしまう。

“洋ちゃん、頼む早く回してくれ。これじゃ俺たち帰れないよ”

光一の悲鳴にも似た叫びが響く。


終業のベルが鳴った時、洋介は身震いを感じた。

今日こそ健太郎と勝負だ。

壁側の作業台に座っている健太郎は、先ほどから洋介の顔ばかり見ている。

洋介は気づかないふりをしていた。


帰りがけ、昨日と同じ通路で頃合を見計らって健太郎が洋介に声を掛けた。

「洋ちゃん。今日は忘れたなんて言わないよね?」

洋介は心が凍った。何も答えられない。

あれほど健太郎からの申し出を突っぱねる言葉を頭で思い描いていながら、その一つも出てこない。

「おい!洋介、1万円貸してくれよな」

洋介の頭は真っ白になってしまった。

「早くお金出せよ」

健太郎の催促がはじまる。

健太郎の目つきがだんだん険悪になってくる。

「おい!無言でつっ立ってないで、金出せよな」

すかさず健太郎のケリが洋介の左足に入る。

洋介はうろたえた。

でも、恐怖で身も心も凍えながら、何も言葉が出てこない。

今日は1万円を持っていない。卓磨が遠くで見ていることを考えれば、昨日、あんな約束をした手前、忘れたと嘘をつくことは恥ずかしい。

それに、その時、洋介にははっきり分かっていた。

もしここで1万円を忘れたと嘘を言えば、一時的には難を逃れることができるが、そうしたら、自分の人生すべてが崩れてしまう。

殴られてもいい。殺されてもいい。ここは耐えなければいけない。

決死の覚悟で洋介は黙り込んだ。


健太郎は洋介をにらむ。

そして口汚く罵る。

「洋介、お前、俺が今まで恩をかけてやったことをよくも忘れやがって、もうお前みたいな奴はかまってやらないぞ」

そしてすかさず右頬にパンチが飛んできた。

洋介は痛いより怖いとの一心で体が硬直してしまい、ただ殴られるままだった。


パンチは一発だった。

健太郎は洋介をにらみ、また口汚くののしった。

「この野郎、覚えておけよ。絶対めちゃくちゃにイジメてやるからな」

健太郎は洋介を蹴飛ばし去ろうとした。


その時、卓磨が健太郎を呼び止めた。

「お金貸せないのが友人じゃないなんて言って、お前は道徳的になっていないと責める」

「俺がお前に恩をかけてやっただと。そりゃ、いったいどんな恩だい?」

「俺に詳しく話してくれないか?」


健太郎は卓磨の胸倉をつかんだ。

「貴様、何が言いたいんだ」

「俺を怒らすと怖いぞ!」


卓磨は笑って健太郎の手をふりほどいた。

健太郎は相手の様子を見て、これは脅せる相手ではないとさとった。

「おいお前、浅井とか言ったな。新入りのくせに。よく覚えておけよ」

健太郎はそう言い捨てると、そくさくと通路を走り抜けていった。


卓磨は洋介のほうを見た。

「井田くん、よくやったね。たいしたものだよ」


まるで糸の切れた風船のように、一気に洋介の緊張はほどけ、とめどもなく言葉が湧き上がってきた。

「浅井さん、助っ人してくれると言っていたのに、なんで今まで出てきてくれなかったの?」

卓磨は、一つ一つそのわけを話しだした。

「俺が出てとめたとしても、もし井田くんがきっぱり断る姿勢をとらなかったら、あいつ俺がいないところできっとまた同じことを繰り返すよ」

「それに、これは俺の問題じゃない。井田くんが解決しなきゃいけない問題だ。俺が解決したとして、それで井田くんの誇りが保てる?」

「自分で闘い傷ついてはじめて尊厳っていうものが持てると思う」

「だから俺は最後まで手を出さなかったんだよ」

「でも本当、よかったよ。もし井田くんが途中で投げ出して、明日持ってきますなんて言い出したら、たぶんもう俺にはどうすることもできなかった」

「井田くんは落ちるところまで落ちていくしかなかったと思う」

洋介は卓磨の真意をつかみ顔を赤らめた。


その頃、洋介からお金をたかれなかった健太郎は、次なるカモを探して通路をきょろきょろ見回していた。

通路には幾人かの人通りがあったが、カモにするのに適当な人物がなかなか見つからない。

健太郎は出口の柱にもたれかけると、逐一工場を出て行く工員を眺めていた。

健太郎が前方を眺めると、星野太一が目に入った。

太一は健太郎が門のところにいるのを見つけると、そくさくと裏口のほうへとさりげなく歩き出した。

健太郎は足早に太一のもとにかけつけた。

健太郎は太一をつかまえると先ほど洋介にしたと同じ言葉を繰り返した。

「太一くん、俺に1万円貸してくれよな」

太一は顔面蒼白になった。

健太郎の顔に笑みが浮かんだ。

「健さん、1万円って言たって、前に貸したお金、まだ返してくれていないじゃん」

「とりあえず前かしたお金返してからにしてよ」

健太郎は眉間にしわを寄せるとまたいつものように脅しだした。

「何!俺に貸せないだと。この野郎」

すかさず太一の左足に健太郎のケリが入った。

太一は顔面蒼白でただ押し黙っていた。

健太郎は太一の頬を殴った。

太一は泣き出しそうな顔になった。

もう少し脅せばお金がたかれる。

健太郎は恐い目をしながら、心の中でほくそえんだ。

もう一発太一のほほを殴ったとき、太一はとうとう財布に手を伸ばした。

「健さん。今回だけだからね」

太一が一万円札を健太郎に渡そうとした瞬間。

予期せぬ出来事が起こった。


卓磨が太一の手から1万円札をひったくったのだ。

それまで卓磨がつけていたことを健太郎は知らなかった。

「この野郎!また俺の邪魔をするのか?」

健太郎は勢いあまって卓磨に殴りかかった。

卓磨は体をひねらせるとするりとよけ、健太郎の足を払った。

健太郎はもんどりをうってしりもちをついた。


健太郎が卓磨に殴りかかろうとした瞬間、修がすっとんできた。

「お前ら何やっているんだ!」

修は健太郎を引き離すと、ケンカの詳細を聞きだした。

「なんでもないんだ。修さんには関係ないだろ」

健太郎は口早に言うと、卓磨をにらんだ。

卓磨は平然とした様子で修に向かって言った。

「上条さん。本当、何でもないですよ」

修はいつもながらぐだぐだ道徳論を話しだした。

「工員は仲良くしなきゃいけない。お前ら友達にならなきゃいけない」

「おい仲直りの証拠に握手しろよな」

健太郎もこれ以上修の説教が聞きたくなかったので、しぶしぶ手を差し出した。

卓磨の手を握ると、まるで汚いものでも触ったかのように振り払った。

「こら!仲良くせんといかんだろ!」

「お前ら2人にしておくと、またいつかケンカしだすか分からない。おい!鈴木、俺についてこい」

「なんで俺が修さんについていかなきゃいけないの?」

「説教は勘弁」

「とにかく来い」


修と健太郎が去ると、物陰から洋介が出てきた。

太一はあまりのことに呆然としていた。

卓磨は手の中でぐしゃぐしゃになった1万円札を伸ばし伸ばし、太一に手渡した。

「なんで健太郎にお金貸そうとしたの?」

「俺、健太郎くんが恐くて・・・」

「健太郎のヤツ、弱いものからたかっては小遣いにしてるんだぞ。貸す人がいるからのさばる。この工場から恐喝を排除するためには、星野くんも負けちゃダメだよ」

「でも、健太郎くん恐いから・・・」

卓磨は悲しそうな顔をした。


太一が帰った後、卓磨は洋介に語った。

「健太郎のヤツ、星野くんを落としにくるよ。きっと。あの分だと次回はダメかもしれない」

「なんで浅井さんは健太郎の恐喝を妨害するの?」

「井田くんは仲間が恐喝されていても何も感じないの?」

洋介は答えられなかった。

洋介は、恐ろしい不良どもに逆らうのが恐くて、ただ、自分が被害にあわないことだけを祈っていた。

洋介は、他人が被害にあっているのを見つけると、なるべく見ないようにして、道を変えて彼らの視界から消えるのが常だった。


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Posted by 三河ネコ  at 23:27 │第一章 ミコルカ工業