2012年01月22日

小説“悪霊”第三話


翌朝、洋介は午前6時に目が覚めた。

目が覚めると寝床から跳ね起き、手提げかばんの中に入れておいた財布を出した。

財布から1万円札を取り出すと、1万円札に印刷してある福沢諭吉の顔を眺めた。

今度こそは決して健太郎に貸さないぞ!

そう心に誓ってはいるものの、健太郎の恐ろしい形相を思い浮かべると、やはり心が揺らぐ。

1万円貸して怖い思いをせずやり過ごせるなら、1万円渡したほうがいいかも。

これは方便だ。1万円貸して難を逃れるという方便だ。嫌な思いをするより、プライドを抑えたほうが得だ。

自分の弱気を正当化する言葉が頭の中でささやく。

もしどうしても健太郎が怖かったら、今度だけ貸してもいいんじゃないかな?

でもまあ、1万円札を財布に入れていないと貸さない選択しかできなくなるわけだから。

選択肢を残すために1万円札を入れておこう。

1万円札を再度財布に入れ手提げかばんの中に戻した。

「ちぇ健太郎なんていう悪党、死んじゃまえばいいのに」

一言吐き捨て、再度布団にもぐりこむ。


この日、洋介は仕事中気が気ではなかった。

仕事が終わった後、来るであろう健太郎のことを思うと心が凍った。

「洋ちゃん、製品がたまっているよ。早く流してくれないとこちらがつかえちゃう」

「あ、ゴメン。急いで回すよ」


昼の休憩中、喫煙室でタバコを吸っていると浅井卓磨が入ってきた。

卓磨はつい2週間前に入社した新入りだ。

歳は洋介より2つ年上の26歳。

澄んだ鋭い目つきに180cmはあろうかという身長。筋肉質で無駄のない体。

新入りのくせにおどおどとしたところがなく、誰に対しても冷たい視線を投げかけていた。

当然、工員の間では好き嫌いが別れ

あいつはお高くとまっていると非難する人もいれば

なかなか味があっていいんじゃないと評価する人もいた。

しかし、彼は誰とも接しようとせず、いつも一人だった。


卓磨はマイルドセブンを取り出すと先端に火をつけ、換気扇に目を移した。

「きたないな。誰も掃除しないのかよ」

卓磨は1本吸い終えると、手に持ったドライバーで換気扇をはずしだした。

洋介はその一部始終を見ていた。


彼は調理室から雑巾を持ってくると丹念に換気扇を磨きだした。

油汚れを取るため、洗浄剤をつけては拭く。そして再度水洗いをしに調理室へ持っていった。

“浅井さんは綺麗好きな人なんだな”洋介はそんな卓磨の様子を眺め感じ入っていた。


終業のベルが鳴り、とうとうその時間が来てしまった。

通路を歩いている洋介を健太郎がつかまえた。

「洋介、1万円持ってきただろうな」

「俺に貸せよな」

「健さん、前貸した1万円返してからにしてくれない?」

「なんだ貴様、俺に逆らおうっていうのか?」

すかさず健太郎のケリが洋介の左足を打った。

洋介はうろたえた。

洋介は強い恐怖に身を震えさせ、泣き出さんばかりの顔になった。

「健さん今度だけだからね」

ふところに手を入れてみると・・・

財布がない。

「健さん財布忘れたよ」

「なんだと、お前財布忘れただと」

「明日、ちゃんと持って来いよな!」

健太郎は不快な顔をしてその場を去っていった。


いったいどこに財布置き忘れたんだろう?

洋介は、工場へと向かうため、通路を駆け出そうとしたその時

少し離れたところから健太郎と洋介の一部始終を眺めていた卓磨が洋介を呼んだ。

洋介が来ると、卓磨は洋介が落とした財布をふところから取り出した。

「井田くん、これ喫煙室に落ちていたよ。」

「浅井さんありがとう。」

「いったいどこに落ちていたの」

「換気扇付近の床の上だよ」

卓磨が換気扇を洗うのを眺めていた時、洋介はうっかり財布を落としてしまったようだった。

中を確認してみた。1万円札も他の小銭もカード類もなくなっていない。

洋介はお礼を言って別れようとすると、卓磨は一言。

「なんか今は俺が持っていてよかったみたいだね」

洋介は一つ苦笑いをした。

洋介は卓磨と話すのはこの時がはじめてだった。

洋介の苦笑いを見て卓磨が言った。

「井田くん、もしかして、昨日、わざわざ1万円札を財布に入れるようなことしなかったかい?」

「実は俺、今一部始終見てたんだけど、ちょっと思ったのが、井田くん、鈴木のヤツに脅されて、その脅しにのって、普段財布に入れていない1万円札をわざわざ財布に入れてきて、それでそわそわして喫煙室に落しちゃったんじゃないかって」

図星だった。洋介は正直に告白した。

「見られちゃたな。実はその通りなんだ。」

「恥ずかしいな。人には言わないでね」

照れる洋介の様子をみて卓磨はやや機嫌を悪くした。

「井田くん、これはそんな照れている場合じゃないの!もっと大事な話」

「明日は絶対に1万円札を持ってきちゃダメだよ」

「鈴木のヤツにはないって言えばいい。財布忘れたじゃなくて、貸したくないってね」

「もし無理なら無言でもいいよ。でも絶対貸しちゃダメ」

「大丈夫、明日は俺もついているから、鈴木のヤツが手を出したら助太刀してやるよ」

「ただ一つ、1万円は絶対に持ってこないこと」

突然の卓磨の申し出に洋介はひどく狼狽した。

なんで浅井さんは初対面の俺にこんなにもしてくれるのか?

ただの正義感からなのか?それとも何か下心があってのことか?

浅井さん、見た目は冷酷そうだけど、似合わないことをする人だな。


洋介は家に帰った。

気持ちは決まっていた。

明日は1万円札を持っていかないことにした。

手提げかばんから1万円札を取り出すと机の引き出しに入れた。

浅井さん、身長180cmもあって強そうだから、健太郎が来ても、あの人が助太刀してくれるなら大丈夫だ。

なんかよくわからないけど幸運だね。

その日、洋介はぐっすり眠った。


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Posted by 三河ネコ  at 23:06 │第一章 ミコルカ工業